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その他のジャンル Archive

「パールよりもガンジー主義について深く理解している(?)」中島岳志氏がNHK「知るを楽しむ」でガンディーについて語る

著書『パール判事 東京裁判批判と絶対平和主義』の内容について小林氏との間で論争が巻き起こった中島岳志氏がNHKの番組「知るを楽しむ」に出演し、ガンディーについて語るそうです。

『ゴー宣』内で展開された批判の中にもあった同書におけるパール判事と憲法9条、ガンジー主義の関連性についてブログ『コールタールの地平の上で』(’07 9/5付け「小林よしのりさんへの返答」より)の中で「「伝統的に無抵抗主義を守って来たインドと勇気をもって平和憲法を守る日本と手を握る」べきことを訴えるパールの演説文に基づき、パールが平和憲法の中にガンディー主義の要素を見出していると分析し」た、という風に執筆姿勢に関して説明がなされました。

これに対して、小林氏は「これには驚いた。まるでオウム真理教に多大な影響を与えた、ポストモダンの宗教学者のような逃げ方である。本の主題、本の意義は、私の主張ではないと言い出した。自分では思ってもいない主張だが、「パールは護憲派だった」と主張する本を書き、「小林よしのりがパールを利用するのは間違いだ」と主張するのだから、いやはや常識も良識も無視する保守がいたものだ」。「中島は、自分がパールよりもガンジー主義について深く理解しているとでも言うつもりなのだろうか?」と再度、批判をされています(『正論』平成19年11月号掲載「パール判事は「憲法9条」を「ガンジー主義」と言ったのか」より)。

  <<参考URL>>

NHK知るを楽しむ公式ホームページ

第1回 「稀代のパフォーマー」 本放送 12/2 午後10:25〜10:50 再放送 12/9 午前5:05〜5:30
第2回 「非暴力・不服従」 本放送 12/9 午後10:25〜10:50 再放送 12/16 午前5:05〜5:30
第3回 「禁欲の矛盾」 本放送 12/16 午後10:25〜10:50 再放送 12/23 午前5:05〜5:30
第4回 「よみがえる聖者」 本放送 12/23 午後10:25〜10:50 再放送 12/30 午前5:05〜5:30

業田良家氏原作『自虐の詩』今秋ロードショー

わしズム『独裁君』、またSAPIO『ガラガラポン! 日本政治』でお馴染み、業田良家氏原作の映画『自虐の詩』が今秋ロードショーされます。

竹書房文庫版原作本の下巻では小林よしのり氏が巻末解説を担当されています。

<参考URL>
映画『自虐の詩』公式ホームページ

GHQと升田幸三

 小林よしのり著「いわゆるA級戦犯」を読んで、そういえば思い出した。

 それは、升田幸三が将棋の事についてGHQがいろいろと質問をしたという話である。ちなみに升田幸三という人物は、将棋ファンであれば知らない人はいないと言ってもいい。また、将棋界において大きな影響を与えたプロ棋士である。

 というわけで、こんな話があるよという事で、升田幸三著「歩を金にする法」からその話を以下引用。

僕はアメリカ人によばれて、GHQでいろいろ質問されたことがあった。木村(義雄)さんが名人を塚田(正夫)さんにとられた直後で、たしか昭和二十二年だったと記憶する。
そのとき僕は、酒をのみながら話をするという条件をつけた。
たぶん、即答できないような質問がでるだろう。酒とかビールをのんでいれば、トイレが近い。すると難問がでたとき、トイレにいって考える時間がとれるから、鮮明に答えられる、という作戦である。
いろいろな質問がでた。答えた。日本人同士じゃないから、いい方がむつかしい。誤ってうけとられると困る。だから、よくトイレへたった。
そのときの質問の中に、「日本の将棋というのは、捕虜虐待みたいなところがあるが、どうか?」というのがあった。
 僕は、捕虜虐待ではない、と答えた。降伏してきたから、味方の駒として使う、差別せずに使う、それが日本の将棋だ。日本将棋の精神というのは、たとえば楠木正成とかいろんな武人が、敵の捕虜が橋を切り落とされて流れていくのをみて助けてやり、火をたいて温めてやる、すると捕虜は感激して「あなたのところで働きたい」という……それが将棋の精神だ。
 昭和の戦争になったら、捕虜なんていうのは、殴ったり蹴ったりするような変調子となってしまい、この野郎、こん畜生式になってしまったが、これは日本の精神ではない。
 日本の将棋というのは、楠木正成がいるころに確立されたのだ、という話をくわしく僕はした。
 敵の駒をとった場合、銀なら銀を、これから少尉ではなく伍長にして使おうというようなことはせずに、少尉のクラスとして扱う。趣旨にしたがうものはみんな我が子、一族という見方なのだ、といった。
 すると、こういうことをいわれた。
「日本将棋は、民主主義じゃない。自由性がない。僕のほうには、ちゃんと女がついてきている……」
 なるほどチェスには女王様がいる。
 しかし僕はいった。王様は危なくなってきたら、女王様を矢盾にして逃げる。防弾チョッキがわりにして王様は逃げてしまう。そういう民主主義は、日本には通用しない。だから日本では野戦のときは女を連れていかない。城が落ちるときは、女子どもを逃がすとか、いろいろかばう手段をする。そのために裏街道などもつくって戦う。主人だけが自害したりする。女を盾にして体を守るようなチェスの精神とはちがうといったら、向こうは困った顔をした。
「升田幸三が日本の総指揮官で、勝った場合はどうするか?」
 というから、僕は捕虜を巣鴨みたいなところへ幽閉せずに、生かして使う、と答えた。将棋の精神である。だいたい戦犯という考えはおかしい。切り殺したほうに罪がなくて、殺されたほうばかりにあるのはおかしいではないか。勝ち敗けに関係なしに、勝ったほうにだって、何かあるはずだ。それでは勝てば官軍式で、ものの理にかなっていない、といった。
 最近も、ライシャワー大使の随行の人たちにそういうことを話した。
 そのときも、
「チェスは、お互いに駒をたくさん自由にとれる。民主主義の自由だ」
 というから、日本の将棋だってとりたいときにとれる、と答えた。戦争というのは消耗するもので、死傷者、破損物がふえる。チェスは、どんどん消耗する。
 しかし将棋は、とった駒も一族として働くのだから、根底からちがうのである。四十枚の駒があれば、一枚も欠けるということはないのである。

朝日新聞「特集企画「歴史と向き合う」第2部 戦争責任」を読んで

7月12日から14日にかけて朝日新聞紙上で「特集企画「歴史と向き合う」第2部 戦争責任」と題した特集が掲載されました。
12日の特集は「パル判事」。
判事を通してA級戦犯、東京裁判、中でも「日本無罪論」について特集されていました。
(この特集は昭和天皇(13日)、朝日新聞を含めた戦時下メディア(14日)、という順番で続いていきましたが朝日新聞が考える自身の罪の重さは3等だということがわかって面白い)
『いわゆるA級戦犯』の中で一章を割いてパール判事を取り上げていることから書名だけ紹介されているのですが、『いわゆるA級戦犯』に感銘を受けた一ファンとしては「A級戦犯」「戦争責任」などの語で容易にまとめられてしまう事柄の実像を丹念に“腑分け”をしてくれることに淡い期待を寄せますがそういった困難な作業をする気はやはりまったくなく、大文字見出しによるインパクト、多方面からの識者の声を集めておいて一面的な理解に導こうとする編集力、記事文中からそこはかとなく伝わる印象操作等々のテクニックを駆使して従来からの主張を崩さずにパール判事を貶める方向性で記事を打ち出しています。
取材班によるパール判事の故郷インドでの受け止められ方を描いた記事は大学の片隅でほこりをかぶっているパール判事の胸像を紹介して終わっていますが言葉がいまだにほこりをかぶっているのはパール判事と朝日新聞のどちらか?
特集記事の中でこのような一文があります。

(引用始め)
意見書の内容が一般に知られるようになったのは、52年4月28日に連合軍による日本占領が集結した後だ。内容を紹介する書物が、待ちかねていたように世に出た。
(引用終り)

三面に渡った特集記事の中の記事にしてわずか6行のこの文章に未だに「閉された言語空間」から抜け出せない朝日新聞の姿が端的に現されています。
A級戦犯の罪状(?)は裁判中から朝日新聞はじめメディアによって盛んに喧伝されていたはずなのになぜパール判事の意見書は知らされなかったのか?
「待ちかねていた」という一面正しいが捩じ曲げられた物言いの裏にあるものは?

この特集シリーズを読んだ後、『いわゆるA級戦犯』第8章「朝日・読売新聞に告ぐ 東京裁判も人民裁判も完全否定せよ!」を読むと実に味わい深いものでした。

全員野球は、将棋の基本的な考え方。

 全員野球、という言葉がある。その意味は「全ての選手の力を満遍なく発揮させる事」といったところなのだろう。

 将棋用語に「遊び駒」というのがある。遊び駒というのは何かといえば、働いていない駒の事である。

 遊び駒を作らずに全ての駒の力を満遍なく発揮させようとする事が全員野球と同じ意味になるならば、全員野球は将棋の基本的な考え方と言っていい。

 巨人軍の原監督の野球を見ると、起用した選手がきちんと働いているなと私は思う。将棋的に言えば、遊び駒を作っていないわけだ。

 将棋と野球をどこまでも同じように考えてはいけないだろう。将棋ならば駒をたくさん使った方がよいと考えられるだろうが、野球はそうでもない。調子の悪い選手もいれば、怪我をしている選手もいる。そういう選手を無理に起用すれば、相手に利する結果ともなりかねないからだ。

「将棋は銀なり、桂馬なり、金なり、しるしで分かるが、人間にはしるしがないからなかなか分からない。だから、人間をあつかうのはむずかしい。(升田幸三著 歩を金にする法)」

酒と泪と男と女

 酒と泪と男と女、という河島英五の唄がある。

 私はそのCDは持っていないので誤りがあるかもしれないが、その歌詞を私なりに以下に要約してみる。

 忘れてしまいたいことやどうしようもない悲しさがあった時、男の場合は酒を飲んで飲み潰れて眠る。女の場合は泣き疲れて眠る。そしてそれ故に、男の狡(ずる)さが見えてきて女の方が偉く思えてきた。そんな感じの唄だったと私は記憶している。

 その歌詞はどのようなものなのかと確認は現在はできない状況なのであるのは断るのだが、ともかく、男は何故に泣けないのだろうか、とここで設問してみる。

 「酒と泪と男と女」では、男の狡さというように歌詞にあるようだ。考えようによっては狡さなのかもしれない。だが単に狡いものなのかといえば、そうとはいえないと思う。

 例えば武士だったら、戦場で戦友が亡くなった時に泣いていられるだろうか。泣いてしまうと、視界が奪われ、戦友だけではなく自分も殺されるかもしれない。それと、家族間でおいて夫が泣いたりして見境が無くなったりすれば、妻や子どもが不安になるかもしれない。そう考えると、迂闊に男は泣く事はできないのだと思う。

 そのように考えれば、男が泣かないのは単なる狡さや見栄ではないのだと思う。また、泣かないのは人間の強さを誰かに対して示すものであるとも言えてくるのではないかと思う。

祝辞:近代的なものとは何か?

あまりに一般的過ぎ、その意味するところは広い。そもそも今から語らんとすることをあらわす言葉として、果たして「近代」という歴史区分を指すと思われる用語が適しているか否かも疑問である。

しかし、とりあえず「近代」と呼ばれるものがあり、何か共通するものがあるとするならば、それは一体何であろうか。力不足ではあるがこれからそれについて述べていきたいと思う。

まずその鍵は「規格化」とそれゆえの「取替可能性」にあるように思う。つまり、それは形式であって、具体的な内容を指すのではない

たとえば、このブログを例にとってみよう。このブログには、どんな内容でも書くことができる。伝統を称揚する内容、均質化に抗う内容も書くことができる。

しかし、その内容が形式に影響を与えることはない。もちろんその逆に形式が内容を一義的に決定することもない。それは先ほど述べたことからも明らかであるように思われる。

そこからわかるのは、つまるところ両者は直接には関係がない。おそらく存在するレベル、次元が異なるからだろう。

そして、このようにして書かれた内容は、内容の如何を問わず、再利用が可能である。望むならば、コピーし、エディターに貼り付け、保存し、編集し、書き換えることさえもきる。あるいはリンクを貼り、引用し、言及し、批判を展開することも可能だろう。RSSリーダーで取り込み、その場を訪れることなしにそれらを読むこともできる。

それらは時と場に応じた姿となり、おのおのの環境に応じたフォーマットで表示される。しかし、そうした形式の変化にもかかわらず、内容は極力保持される。というより、むしろ、そのようなことが期待されている。

姿形の変化にかかわらず、我々が「それをそれとして」受け取ることができるのはなぜか。そこに信ずるに足る何か(端的には「相手」、および彼の思考や感情)があると期待するのはなぜか?ひとえに我々が依然として内容というものを信じているからであり、しかもそれらは抽象に耐えうると了解されているからだ。

具体から切り出されることで、恒久不変な強度をもったかのように見えたそれらは、しかし、まさにそのことによって断片化し、離散集合を繰り返すこととなる。

さて、その詳しい仕組みに言及する余裕は能力的にもないが、内容にできるだけ影響を与えずに再構築に耐えうる形にすること、それが規格化である。かかる規格化されたものは他のものと取替可能となり、それにより全体の再構築が可能となる。

近代的なるものは広がりやすく、しかし同時に廃れやすくもある。流動性は高まり、連帯は弱まる。そして近代的諸制度は細分化した要素を拾い上げ、再びうずたかく積み上げるだろう。我々は「お前の代わりはいくらでもいるんだ」といわれるとけっこうへこむが、その実、他人をそのように見てもいる。

とはいったものの、形式に内容のレベルで反駁してもしょうがない。たとえそうしたとして、皿に盛られた寿司のようにいつまでも回りつづけ、回転寿司屋はむしろネタが増えたと喜ぶだけかもしれない。

しかし、これは意図した結果なのだろうか。

私はそうは思わない。やがてデジタル技術へと収斂していくであろう、このエコノミーな思想は、そもそも限りある資源、その不足を補うものではなかったか。

むろん成り立ちは、「今もそうであること」を必ずしも意味しない。さらに、その「今」が永遠に続くという確証もどこにもない。

たとえば見田宗介が「現代社会の理論」において、情報社会に社会の活路を見い出してみせたよう、我々が望んだ合理主義的精神がひとたび我々を打ちのめしたのち、もし我々を救うことがあるとするならば、それは一体いかなる形によってなのだろうか。

その兆しはかすかにではあるが、しかし確実に感じとることができる。まず、ここの管理人さんの努力がそうだ。その思いつきとそれを形にすることに労を惜しまぬ心意気には、頭が下がる想いでいっぱいだ。

というわけで駄文ではあるが、これをもってサイト新装開店への祝辞としたい。あとはどれだけ多くの皿を、そのレーンに流しつづけることができるかにかかっている。

【将棋】将棋をたくさん指し続ける事の弊害

 3月12日のブログで「将棋熱、再び」というのを書いた。そして今現在、将棋熱は冷めた。

 ただ、一日に一度はネット将棋を指すか観戦するかはしている。というのは、将棋の勘が鈍っても嫌だからだ。

 そうして一日に一度の対局をしてみると、案外、勝率がよい。一日に何度も指していると勝率が悪かったりする。それはおそらく、何度も指すと将棋に勝とうという意識が祟ってしまうからなのかなと、とりあえずそう思っている。

 そして一日に一度だと、盤面を大局的にとらえて将棋を指しているような感じになった。一日に何度も指していると、盤面をどこか局所的というか、そのようにとらえてしまっているんじゃないかという気がした。

 将棋が強くなるための一つの方法としては、将棋をたくさん指す事であると思う。だけども、何度も指すと弊害になるものもあるのかなという気がした。その点を考慮すれば、将棋が強くなるのかもしれないなという気もした。

明日、報道2001に西部邁さん出演するらしい。

 
http://www.fujitv.co.jp/b_hp/2001/から以下引用。

26日の「報道2001」前半は、在日米軍再編を巡る交渉が大詰めを迎える中、そもそも日米安保とは日本人にとって何なのかを改めて考える。全国に87ヶ所ある米軍施設、米軍による首都圏上空の航空管制権、これらは極東と日本の安全のために本当に必要な負担なのか。さらにアメリカが求める海兵隊のグアム移転経費の75%負担は正当な要求なのか。ゲストは今回の交渉で最前線に立つ山崎拓自民党安全保障調査会長、日本の自立を主張する西部邁秀明大学頭。

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